Through the devil's eyes

物書き置き場

生きる屍

煙草をふかしながら、今日も何もなかったとため息を吐く。くだらないテレビ番組に笑わされたあとは特に気分の落ち込みが酷い。何もかもが相対的で中身のない空虚なものに思えて、ぐるぐると止めどない考えに身を任せていると時計が軽々と頂上を超えて日付を変える。この人生もまた、くだらない。

何か気分を変えようとシャワーを浴びてみるも、ぼうっとした頭に浮かんでくるのは過去の失態や、他人からの辛辣な言葉、リフレインのように頭に何度も浮かぶ雑多なそれらの中の一つのワードを無意識にピックアップして、指が見えないキーボードを叩く。瘡蓋を剥いても痛みを感じないので抉ってまで血を出そうとするように、何度も何度も何度も同じことを思い出す。ああ、と口から間抜けな声が出た。今日も何もなかったはずなのに、心は確かに脈打つように新たな血を流す。

予め暖めておいた部屋に戻り、何か温かいものをと、ココアを入れることにした。小分けにされた粉末のパックは何も考えずに作れるので好きだ。しかし手元にうまく力が入らず、袋を破いた勢いで粉末が汚く流し台へ、すこし、こぼれた。それがまた気を滅入らせて、残った粉末をマグカップへ、くずをゴミ袋へ投げ捨てる。袋の中で惨めに小さくなっているゴミを見て、まるで同類を見ているようだと心の中で自嘲する。今日もなにもなかった。何もできやしなかった。何もしようとすらしなかった。価値のない一日。

湯の沸く音がして、機械的に湯を注ぐ。さっき零れた分があるから、少し少なめでいいかな。そんなことを考える自分にも吐き気がする。自分のことなら考えることができる矮小な動物本能。たかだかココア如きで動物本能だのと、エクストリームな考えであることはどこかで分かっているけれども止まらない自己嫌悪と自己卑下が更に自分を汚く思わせる。今日もなにも生み出せなかった。

連絡手段としてはろくに機能していない携帯が鳴る。見れば友人からのメールで、明日の食事は何時にするかということだった。すっかり忘れていたが明日の予定なんて私には無い。適当な時間を提案する返信を送り、背後のソファへそのまま携帯を軽く投げる。ああ、明日も生きなければならない。生きなければならない。それは他人が私に課す義務だから。そこに私という個人を考慮する予定は無いのだ。社会に生きればこそ人は個人を社会に適応させ、個人の無いものほど社会に歓迎される。人の為の社会なんかじゃない、社会の為の人が必要とされているのだ。

「もう、寝よう」

どうせすっかり夜が明けるまで眠ることなど出来ないくせに、呟く。ココアを飲みほし、洗い物の中にマグカップを置き、ベッドに潜る。嫌な気持ちだった。パーソナルスペースとして最初は機能していた、このワンルームの部屋でさえも、誰かが覗いていそうな気がして鳩尾がひやひやとした。誰も理解者はいない。優しい人も疲れさせてしまう厄介なわたしが悪いのだ。指が「リカイシャ」と見えないキーボードを叩く。今日もなにもなかった。明日もきっと何もないだろう。何も得ないし何も生まないし、ただ騒々しい一日に疲れて終わるのだろう。もうこのまま目が覚めなければ良いのに。一番心地よい一人の時間でさえこんなに辛く感じるのだ、明日、人と会うまでにそれらを全部隠して振る舞わなければならない。怖い。

また止めどない連想と記憶の反芻が始まっていく。

***

「最近、千佳ちゃん元気ない気がするの、わたしだけ?」

何の脈絡もなく唐突に言い出す友人に、ぎょっとする。試されている。ここで弱みを出しては全てが崩壊するように感じた。

場所は学生時代に通いなれたファミレス、平日昼食時ではあるが混むことも無く、夕方までぺちゃくちゃと喋っているであろう暇を持て余した主婦たちがそこかしこに見られるくらいだった。社会人になり一年、偶然勤務先が近いことが分かった大学時代の友人と会うことになり、お互いの休日を合わせて食事をしようということになった。一か月ずれ二か月ずれ、とうとう三か月ずれた挙句の今日だった。

「別に、フツーだよわたし」

緊張しながら手元のフォークを操る。バターで炒められ頼りなくなったホウレン草を口に運ぶでもなくいじる。友人はとても人柄の良い人物だったが、変に鋭いところがあるので、自分が弱っている時に会うと困ることばかりだった。どれだけ隠そうとしても見破られてしまうし、何を隠しているかまでは分かられなくても、隠していることはすぐに察知してくる。ありがたいのか厄介なのか、私はどちらも心に覚える。

私のつれない反応に、友人がじっとこちらを見つめてくる。あまり人と目を合わせることは得意ではないため、さっと視線を外し、ホウレン草を口に運ぶ。

「強がってるなあと思うよ、いつも」

「そう?」

「分かってくれないと思ってるんだろうけど、まあ分からないかもしれないんだけど、またコイツ我慢して爆発しかけてるんだなあと思う」

返事が出来ない。友人はステーキを綺麗に口へ運ぶ。その口元は穏やかに弧を描いていて、意地悪さは微塵も感じさせない。興味本位で人の心に入り土足で踏みまわるような奴らとは違うということは分かっているのだが、どうも私には自分を素直に見せるだけの度胸が無い。それに、友人が手を差し伸べてくれても、それを上手く取る術を知らない。そうしてモタモタしている間に手は引っ込められてしまって、代わりに呆れ顔でこちらを見る人がまた増える。

「ちょっと、疲れたのかも。大丈夫だよ」

「なら良いけど」

ふう、と小さく息を吐く友人に、ああまたやってしまった、と思う。また手を上手く取ることが出来ずに、人との距離が出来てしまう。そうやって何人もの人たちが遠くなっていってしまった。フォークの先でホウレン草が頼りなく横たわっている。まるで昨晩の私のように小さく頼りなく惨めだ。鳩尾が締め付けられるような感覚がして思わず息を止める。友人がまたこちらをじっと見つめているのが分かった。

***

三時間、他愛もない話を続けたあと、私たちはファミレスから五分ほど歩いた先にある駅前にいた。風が少し冷たい。

「じゃ、またね」

「今日はありがとう、気を付けて帰ってね、またね」

「千佳ちゃんも気を付けてね」

そこらの女の子の集まりと違って、別れるときは、さっと別れるのが友人を含め私のやり方だった。違和感は無いはずの、すっとお互いに踵を返してそれぞれの道を歩くこの時間が今は安堵と不安が入り混じる複雑なものに感じた。また友人を遠ざけてしまったことが否定できない事実として双肩に重くのし掛かる。今日は何も生み出せないばかりか、失ってしまった。足取りは重くなり、冷えた家に帰る道は寂しい。人の多い駅前も、他人という背景の一部が賑やかなだけで親しみを持てるものではない。誰もが行き先を持つ中、誰もが目的を持つ中、私は冷たい家に帰ってまた一人後悔と失望を繰り返すだけ。

「死のう」

無意識にぽつりと口から出た言葉だけが希望に思えた。この生ぬるい無限の苦しみから、死ねば、解放される気がした。そうとなれば明日に決行しよう。そう思うと少し力が体に宿るのがわかった。

切符を買い、自由に歩く人々の間を縫うように改札に向かう。誰もが自分の事で頭が一杯、といった様子で足早に他人を気にせず歩いている。

改札を抜け、ホームに出たところで、カバンの中の携帯が震えたのが分かった。新着と赤く表示されたメールを開けば、さっき別れた友人からだった。

変なこと考えるなよ。その一文だけが表示された画面に、力が抜ける。鋭い友人は、私がどこに向かっていくのかも見越してしまう。

ありがとう、とだけ返信を送り、携帯をしまう。荷が降りたのか戻ったのか、よく分からない感覚を覚えながら、ホームに滑り込んできた電車を眺める。

生きなければならないという義務感と、生きてても良いと思われているという安心感の、一体どちらを信じれば救われるのだろう。ともあれ、死ぬのは延期されるであろう。視界に薄く膜を張る涙が何故生じた のかを追わずに、目を閉じた。